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zoom RSS 犬旅58・生野銀山(続き)

<<   作成日時 : 2018/12/04 00:14   >>

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入り口付近には、手子と呼ばれる人がいました。
狭い坑道などでは、通風がよくないので、唐箕で風を送る役目をしています。
唐箕とは、風力を起して穀物を 籾殻・玄米・塵などに選別するための農具のことです。
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江戸時代までは、狸掘りという方法で掘られていました。狸掘りとは、 地表の露頭から鉱石を追って,無計画に掘り進む採掘のやり方のことをいうそうです。
タヌキの巣穴に似た不規則な採掘のあとが作られるところから出た呼名です。
手掘りの時代は、サザエに菜種油を入れて灯りに使っていたそうですよ。
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ここは、シュリンケージ採掘跡です。
炭鉱でも急傾斜の炭層の採掘に同じような方法が用いられることがあるそうです。
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生野銀山は大同2年(807年)に銀が出たと伝えられ手掘りいます。室町年間の天文11年(1542年)には銀石を掘り出し、開坑の起源といわれています。
永禄10年(1567年)には自然銀を多く含む日本最大の鉱脈が見つかっています。
その後、織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、慶長5年(1600年)徳川家康は、但馬金銀山奉行を配置、佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えてきました。
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明治元年(1868年)には日本初の官営鉱山となりました。
明治政府は近代化を推し進めるため、「お雇い外国人第1号」のフランス人技師ジャン・フランソワ・コアニエを鉱山師兼鉱学教師として雇い、コアニエが帰国するまでの10年の間に、製鉱所(精錬所)を建設し、生野に日本の近代化鉱業の模範鉱山・製鉱所の確立をめざしたそうです。
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明治22年(1889年)には生野鉱山と佐渡鉱山が皇室財産に移され、宮内省御料局の所管となり、明治29年(1896年)には三菱合資会社に払い下げられ、以後、三菱の経営で国内有数の大鉱山として稼働してきましたが、昭和48年に閉山しました。その間に掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しており、採掘した鉱石の種類は70種にも及んでいます。
昭和49年に観光施設として史跡・生野銀山が開業しました。
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ここは、出方相改取締と呼ばれるところで、昼夜を問わず、掘り出す銀石を厳重に監督したところです。
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